宮内庁から発表!! 奈落の底へ…

0

「美智子さまはサイコパス気質のある方でした。初の民間出身の皇太子妃でしたから、様々なプレッシャーがあったのだと思います。その反動からでしょうか、自分より立場の弱い職員たちに対しては非常に辛辣でした」。

確かに美智子さまは皇室にとって異質な存在でした。それまで「お妃候補」は旧皇族・旧華族から選ばれるのが当然とされていたため、当時の皇室秩序から大きな反発があったことが、様々な資料から確認されます。昭和天皇の侍従を50年以上にわたり務めた故・入江相政氏の日記からは当時の宮中の様子が克明に記されています。

みなさん、こんにちは。 チャンネルをご覧いただきありがとうございます。この動画に対して、いいねボタンでの評価を頂けると嬉しいです。今回取り上げるニュースはこちらです。

いつから皇室は私利私欲に走るようになったのでしょうか? お手振りで多額の御車代が払われたり、親族が財団法人の理事になったり、結婚詐欺や公金横領をしても逮捕されなかったり、信じられないような事態が続いています。このような皇室の異常事態は、平成時代になって初めて生まれました。

なぜ皇室は堕落したのでしょうか? その元凶は誰なのか? 黒幕は誰なのか?それはずばり美智子さまに他なりません。元宮内庁職員の佐川良子さんは次のように美智子さまを評します。

「美智子さまはサイコパス気質のある方でした。初の民間出身の皇太子妃でしたから、様々なプレッシャーがあったのだと思います。その反動からでしょうか、自分より立場の弱い職員たちに対しては非常に辛辣でした」。

確かに美智子さまは皇室にとって異質な存在でした。それまで「お妃候補」は旧皇族・旧華族から選ばれるのが当然とされていたため、当時の皇室秩序から大きな反発があったことが、様々な資料から確認されます。昭和天皇の侍従を50年以上にわたり務めた故・入江相政氏の日記からは当時の宮中の様子が克明に記されています。

東宮様の御縁談について平民からとは怪しからんといふやうなことで皇后さまが勢津君様と喜久君様を招んでお訴へになった由。この夏御殿場でも勢津、喜久に松平信子といふ顔ぶれで田島さんに同じ趣旨のことをいはれた由。

香淳皇后、秩父宮妃勢津子さま、高松宮妃喜久子さま、そして貞明皇后に仕えていたことで皇室内で強力な発言力を持っていた松平信子氏が中核となり、美智子さまの皇室入りに反対姿勢を取っていたことは有名な話です。

しかし、昭和天皇の理解が後押しとなり、次第に表立っての批判は無くなっていったそうです。天皇の側近中の側近であった入江相政は当初、日記の中で美智子さまをべた褒めし、美智子さまが次第に皇室内での地位を確立していった様子がうかがえます。

三時前に出て黒木、田端両君と五反田の正田家へ行く。質素な家だし、みんな立派ないい方である。美智子さん、綺麗でそして立派である。

記者会見。この時の美智子さんの立派さは忘れられない。

十六日に美智子さんも交へてお文庫でお催しになったらと女官長を通じて申出たが早過ぎるとのことで駄目。何が早過ぎるのか全然分らない。

お召しだったといふので相撲がすんでから御前に出たら美智子さんの事について非常に御期待になってゐることをいろいろ仰せになる。

昼はデンマーク、コロンビア、インド各大使の御陪食、東宮妃殿下はじめてお出になり、コロンビア大使と非常によくお話しになっていらつしやった由。

入江侍従は、美智子さまを婚約内定前からサポートし、お妃教育にも大きく関与していた人物です。このようなベタ褒め体質が、美智子さまを増長させてしまったのかもしれませんね。

苦労の多い東宮時代。
さて、平成皇室においてもう一つの大きな変化は、皇室報道に関する介入の仕方です。その象徴となる出来事が、いわゆる「美智子さま失声症事件」なのではないでしょうか。

ことは、『宝島30』平成5年8月号に「皇室の危機 『菊のカーテン』の内側からの証言」として、「宮内庁職員・大内糺」という人物の記事が掲載されたことに端を発します。

この告発の中で、大内氏は平成皇室、とりわけ美智子さまについて「華美な生活を好み、キリスト教に親和性が高く、皇室になじまない」と痛烈に批判。これに大変なショックを感じられた美智子さまは声を失い数カ月間公務から遠ざかり、宮内庁に抗議文を発表させるという事態になりました。

もちろん、人心の批判を放置して黙っている美智子さまではありません。美智子さまは、同年10月のお誕生日に、以下のように報道機関への良識を問うかのようなコメントを発表し、過熱するバッシングを一掃しました。

どのような批判も,自分を省みるよすがとして耳を傾けねばと思います。今までに私の配慮が充分でなかったり,どのようなことでも,私の言葉が人を傷つけておりましたら,許して頂きたいと思います。

しかし事実でない報道には,大きな悲しみと戸惑いを覚えます。批判の許されない社会であってはなりませんが,事実に基づかない批判が,繰り返し許される社会であって欲しくはありません。幾つかの事例についてだけでも,関係者の説明がなされ,人々の納得を得られれば幸せに思います。

これ以後、美智子さま賛美の週刊誌、書籍が皇室関連書籍の大半を占めるようになりました。近代皇室の歴史において、皇后が直接メディアへの反省を促すような動きをしたことはなかったため、一部では美智子さまを「女帝」などと呼ぶ職員も現れたのです。

「美智子さまを褒めないと左遷されるというような風潮が宮内庁内にはありました。何を決定するにも美智子さまにお伺いを立てていましたね」。

美智子さま“自愛”の姿。
これまでの皇后にはなかった大胆不敵な動きをされた美智子さま。民間から初めて入内し、肩身の狭い苦しい時代を過ごされたことが、このような反骨心につながったのかもしれません。

美智子さまの皇室内での変化のきっかけは何だったのだろうか? 先出の『入江相政日記』を読むと、そこに手がかりとなる出来事が記されています。

喜久君様から電話。九時過ぎに出勤、九時四十分から十時過ぎまで哥(うた)を見てくれといふのが本論だが、あと東宮妃殿下のことなどあらゆること、いつもの通り。「このままでは皇室は亡びるだけだ」といってあげる

この日記では、反美智子さまの中核であった喜久子さまが、美智子さまが原因で「皇室が滅びる」と嘆いている様子が綴られています。何が起きたのかまでは記録されていませんが、さまざまなイジメがあったのではないかと推測させられます。

さらに、過激な記述も残されています。入江侍従は、連日のように美智子さまへの怒りを吐露する心情を記しています。

次長から東宮妃が予の書くものについて恨んでいらつしやるから当分内廷のことについては書かない方が無難と長官が云った由。あきれたことである。

東宮妃の云はれたことくりかへし考へるが誠に不愉快である。それに更にかりにさう云はれたとしてもその事が当の予の耳に届くといふやうなこと昔の側近にはあり得ないことである。

又東宮妃のことが不愉快に思ひ出される。

入江侍従は週刊誌に寄稿をすることも多くあったので、おそらく著作のいずれかが美智子さまの逆鱗に触れたのだと考えられます。

このように、美智子さまはまだ新米の皇太子妃であった頃から、懇意であった入江侍従とも衝突するような勝ち気さを持ち合わせていたようだ。内部からの改革を推し進められ、当然皇族方からの反発も多かったのでしょう。

慈愛に満ちた開かれた皇室の印象が強い平成時代。しかしそのイメージを守るために、美智子さまは長年に渡り皇室内部やメディアとの調和に苦しんでこられたのかもしれません。

ではこのニュースを見た人々の反応を見ていきましょう。

聖心女子大学の成績ては、Aも幾つかありましたが、BもCもあり優秀とは程遠い成績。強いて言えば中の上でしょうか。総代はその当時生徒会長をしていたためで、成績優秀者がなる通説はなかったようで、学生時代から非常に気の強さがあり、何事も一番でないと気の済まないところがあったようです。今日の皇室に於いての雅子皇后陛下のハイスペックなキャリアに負けたことによる、嫉妬が渦巻き同類のキコを巻き込み虐めに走ったことは、学生時代からその片鱗がありました。独身時代は夜な夜なパーティーに繰り出し、ダンスホールでお遊びも盛んでした。何故その独身時代、明仁皇太子がどうしても妃に迎えたいと言っても、当時は戦後まだ12〜13年しか経っていない昭和32〜33年頃です。美智子嬢は幾らお金持ちになったとは言え、その当時は女性は花嫁修行させられ、生け花、お裁縫、お茶を立てるという習い事を親から強いられていた時代です。そのお稽古ごとよりもダンスホールに通い詰め、美智子嬢が男の方とダンスする写真もありましたね?男の方にタバコに火を付ける写真も残ってます。要は遊び人であったと言うことでしょうか。自由人を謳歌していたのでしょう。こうして振り返ってみると、出自も皇室へ上がれるような女性ではなかったのです。

親しくしている絵本編集者に美智子は、上皇から「あなたと結婚してよかった。」と告げられたことを伝えたそうだ。館林での二大企業。正田醤油と日清製粉。企業家の子女である美智子には、皇室に嫁ぐことにより親族に利益誘導することが使命だった。美智子が自分より弱い立場の職員たちには非常に辛辣だったのは、上皇の心さえキャッチしていればあとは全て上手く行くと踏んでいたから。マコの心さえ掴んでいれば全て良し。とのコムロの心と繋がっている。

長い歴史から生まれたその国の体質のようなものは、なかなか変わらないと思う確かに変わらないものもありますが、殆どの物事は常に変化し、時の流れの中で加速度を増す物事も少なくありません。日本においても、太平洋戦争を挟んで「激変」ですし、戦後の昭和と、今の令和で「別世界」かと思う程大きな違いです。連綿と流れる時間の中で、我々が気づかないだけで、実は激変しているのではないでしょうか。皇室の変革については全くの未知数ですが、皇室に生まれたと云うだけで、自由な人生を選べず、様々な制約を受けることは、ご本人にとっても国民にとっても、時に不幸であり、M子さんのような問題は、今後も繰り返し起きるでしょう。日本人として「国民の権利と義務」も備えて戴き、その上で意欲を持つ方だけが皇族として「神道祭祀」と「皇族としての人間性の向上」の人生を歩むべきであり、それに対して国が一定の支援をすべきでしょう。皇族の権威に胡座をかいて我儘を押し通すような人間では、国民の理解や敬愛は受けられません。やはり憲法そのものを改め、今とは違った形で天皇や皇族の立ち位置を定め、「皇統の継承」を考えるべき時期だと思います。

本日も最後まで動画を見ていただきありがとうございました。また皆さんに感じたこと意見などをコメントしていっていただけたら嬉しいです。もしよろしければ評価などもお願いします。では次回の動画でまたお会いしましょう。ありがとうございました。

Trả lời

Email của bạn sẽ không được hiển thị công khai. Các trường bắt buộc được đánh dấu *