天皇陛下悲報!! 致命的ミス…奈落の底へ!?
私のチャンネル: https://www.youtube.com/@newsjapanonline5901/videos 秋篠宮殿下、54歳の“立皇嗣の礼”。 眞子さんの「公」ではなく「私」を重んじる結婚強行をはじめとする秋篠宮家の蛮行により、これまでになく皇室は危機に瀕している。次世代の天皇とされる悠仁さまも「私」を重んじるばかり、「天皇になりたくない!」と言い出す可能背が出てきた。高騰の安定化は秋篠宮家を抜きに考える必要がある。 岸総理は、これまでも女性天皇・女系天皇・女性宮家には反対の意を度々表明している。ゆえに皇室典範改正の議論においては、安倍首相と同じく男系男子の路線を踏むものと思われる。愛子さまの即位への道はまだまだ険しい。 “立皇嗣の礼”と“立太子の礼”。 ところで秋篠宮殿下の“立皇嗣の礼”は、かつての“立太子の礼”に準ずる。皇太子とは皇位継承権一位であることが確定した地位のことを言い、皇位継承権一位のことを皇嗣という。「皇太子」という語の初出は『日本書紀』推古天皇即位元年の「厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)を立てて、皇太子とす。価りて録さに摂政らしむ。万機を以て悉に委ぬ」であるが、これが制度化されたのは令制(8世紀)が成立した後であるようだ(荒木敏夫『日本古代の皇太子』吉川弘文館、1985)。 現在は皇室典範によって皇位継承の順位が機械的に定められるため“立太子の礼”は儀礼的・形式的なものになっているが、かつては「後継ぎをあらかじめ内定させておくことで、跡目争い防ぐ」という重大な目的があった。 天皇が一夫多妻だった頃は、皇子として生まれただけで、自動的に皇位継承権をもつ「親王」の地位が与えらたわけではなかった。 天皇から“親王宣下”を受けることで親王になり、さらに“立太子の礼”が行われた。現在では一夫多妻は廃れ、非嫡出子は皇族として認められず、三世内の皇子は生まれながらに親王となるため、近代以降、親王宣下は行われなくなった。 なお、かつて立太子(立皇嗣)は成年式と密接な関係があり、上皇陛下は18歳になられた時この二つを同時に挙行したが、平均寿命が延びに伸びつつあるため今上陛下の“立太子の礼”は31歳、秋篠宮殿下の“立皇嗣の礼”は54歳(予定)と高齢化が進んでいる。 余談だが、仮に旧宮家男子を皇室に戻すことになった場合、現皇室とは血縁関係が遠いため「親王」を名乗ることはできない。皇室典範第六条に三世以下の男性嫡子は「王」になると定められているからだ。歴史的に見て「王」と「親王」とでは、その正統性は大きく違う。ゆえに、旧宮家男子が皇籍復帰するならば、新たに「親王宣下」をする必要があるのではないかと思う。こういった点からも旧宮家男子の皇籍復帰はハードルが高い。 立太子(立皇嗣)と自己修練。 ところで皇太子(皇嗣)になると、陛下に付き添い宮中祭祀により深く携わることになる。これも帝王学の一環だ。“立皇嗣宣明の儀”の後に行われる“壺切御剣の親授”を済ませると、秋篠宮殿下と紀子さまは、宮中三殿の殿上に昇り(昇殿)、神事に携わることになる。いわば天皇陛下の祭祀の継承者としてお近くに仕え、その奥義を習得していくのだ。 宮中祭祀は独特の威儀(所作)を伴うため、一朝一夜で習得できるものではない。お召しになる装束は7~8㎏と重く、長時間の正座をともなう場合も多いため肉体的負担も大きい。 祭祀が近くなると上皇陛下はテレビをみながら正座をして鍛錬していたことは夙に知られる。 今上陛下は登山やジョギングを趣味とされて、日頃から肉体鍛錬を怠らない。私は一度だけ今上陛下の登山に同行したことがあるが、我らお付きの職員はすぐに息を切らしたにもかかわらず、陛下は涼しい顔で笑顔を湛えながら黙々と登られていたことが鮮やかに記憶に残っている。山小屋で休憩した時には、陛下から「どうぞ。周りの皆さんにも配ってあげてください」とお菓子と果物を頂き、同行してきた新聞記者らにも配った。 また今上陛下の「登山」という趣味は、肉体鍛錬のみならず日本文化への深い洞察までも込められている。この時の登山について陛下は次のように回顧されていた。 私は幼少の頃から、「道」というものに大変興味があった。その発端は、小学生の時に私の住む赤坂御苑(赤坂御用地)内に鎌倉時代の古道が通っていることを知ったためである。 人々が信仰心に触発されて入山し、修験者が抖擻行脚した足跡を辿り、その歴史の温もりを感じる絶好の場所であろう。私にとって信仰の山への登山は、過去を偲びながら歩む生きた歴史探索なのである。...